『千と千尋の神隠し』国内最高峰のアニメ映画の率直な感想(ネタバレ注意)
『千と千尋の神隠し』がどれだけ凄いアニメ映画なのかを語るのはあまりにも今更のことだと思います。
僕は、例えば好きな漫画を問われて『ONE PIECE』と答える人をにわか扱いし、ちょっと知る人の少ない作品を挙げては通ぶりたいタイプの人間です。いや、普段はこんなことを露骨に言ったりしませんけど、今回はあえて言っているので悪しからず。(笑)
まあ、これはどんなジャンルにも言えることで、ワールドカップの時だけのサッカーファンだとか、最近であればラグビーファンだとか、そういう人たちを見ているとブームとか関係なく好きな人からしたら何だか複雑な気持ちになってしまうのは分かりますよね?
好きなものが注目されて嬉しい!
だけど自分はもっと深く知ってるし、自分もブームに乗ったにわかだと思われたくないなぁ・・
そんな風に感じしまいそうなものです。
少なくとも、僕も自分が好きなものに対してはそう感じることがあります。
いきなり本題から逸れましたが、これは『千と千尋の神隠し』の記事でした。(笑)
いわずと知れた国内歴代最高の興行収入(約308億円)を誇るスタジオジブリ制作の名作アニメ映画ですね。
・・で、前述した通り僕は通ぶりたいタイプの人間で、アニメ映画にもそれなりに精通しています。年間最低20本以上は映画館で映画を観ていて、その半数近くはアニメ映画なのだと言えば少なくとも一般的な人よりは精通していることが分かっていただけるかと思います。
さて、そんな僕が今まで見たアニメ映画の中で一番面白かったものは何なのかと考えてみたら、正直『千と千尋の神隠し』を挙げざるを得ませんでした。
通ぶりたいなら最高のヒット作ではなく知る人ぞ知る名作を挙げるべきなのでしょうけど、そういう通ぶりたい感情を差し引いても『千と千尋の神隠し』が一番だったので仕方がありません。
考えてみればアニメ映画としてそれほど王道的な物語というわけでもなく、また分かりやすいわけでもなく、完成されきっているわけでもない。
しかし、驚くほど濃密な僅か124分になっています。
興味がある人は今見ているシーンが開始から何分なのかを確認しながら見てみてください。観る者を『千と千尋の神隠し』の不思議な世界に引き込むのに、恐らく10分もかかっていません。たった10分がとてつもなく濃密だからです。
実は本記事を書くにあたって久しぶりに『千と千尋の神隠し』を通しで見返してみたんですけど、何度見ても引き込まれてしまう名作であると改めて再認識させられました。
一般的なアニメ映画にも、とても印象に残る強烈なカットがいくつかはあるものですが、まずその数が尋常じゃありませんでした。
・・と、本記事の趣旨はそんなアニメファンにしかピンとこないようなことを書き綴ることではありません。
『千と千尋の神隠し』は、あまりにも完成度の高い作品であることからアニメーションの作りとしての考察がなされたり、神秘的なストーリーの中に点在する謎や制作されるにあたっての経緯なんかは頻繁に語られています。
しかし、あまりにも有名すぎるが故にまっさらな気持ちで綴られた感想って実はあまり見当たらないとも感じました。
というわけで前書きが長くなりましたが、本記事では『千と千尋の神隠し』を初めて観た当時のことを思い出しながら、読書感想文を書く時のようなまっさらな気持ちで率直な感想を綴っていきます。
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- トンネルのむこうは、不思議の町でした。
- 可愛くない主人公
- ホラー映画としての千と千尋の神隠し
- 働く女性として強く成長していく千尋(千)
- カオナシという化け物が示すこと
- 最期に千尋が得たものとは?
- いつも何度でも
- 物語に引き込んでくれるサウンド
- 総括
トンネルのむこうは、不思議の町でした。
そんな川端康成の雪国を彷彿とさせるキャッチーな謳い文句で『千と千尋の神隠し』という作品を初めて認識したのは、公開直前何かしらのジブリ作品が金曜ロードショーで放送された後に流れた長い予告映像を見た時でした。
その時に放送されていたのが『天空の城ラピュタ』だったのか、それとも『魔女の宅急便』だったのか、実はその辺の記憶は曖昧なのですが『千と千尋の神隠し』の予告映像を見た時の衝撃は今でも覚えています。
千尋とその両親が迷い込んだ不思議の町で繰り広げられる幻想的だがなかなかに恐ろしい怪奇現象に不安を煽られ、しかし『千と千尋の神隠し』以前に見たどのジブリ作品とも違う独特な雰囲気に一気に飲み込まれました。
普段はアニメーションになど興味を示さない母親すら「コレ、何だか面白そうね」と予告映像を注視していたのを覚えています。
考えてみれば、アニメーションに興味を示さない層にすら訴えかけなければ国内歴代最高の興行収入など達成できないでしょうし、そういう意味では公開前から歴史が作られる予兆はあったのかもしれません。
たかだか予告映像ですが、それを見た人は既にトンネルのむこうの不思議の町に誘われていたのかもしれませんね。(笑)
しかし、これは僕にとってあまりにも大きな後悔なのですが、年間20本以上の映画を観ているような人間なのに実は『千と千尋の神隠し』を劇場で観てはいないのです。
これは、当時はまだ劇場で映画を観る習慣が無かったのと、「高校生にもなってアニメなんて・・」というくだらないプライドがあったからなのですが、正直当時の自分を殴り飛ばしたいくらいの大きな後悔でした。
ともあれ、そういうわけで僕が初めて『千と千尋の神隠し』を観たのは父親がレンタルビデオ店で借りてきた時と相成りました。
そうそう、そういえば父親も母親以上にアニメーションに興味のない人間なのですけど、それでもレンタルくらいはしてみようと思わされる作品だったということになりますね。
可愛くない主人公
ところで、こう言ってはなんですが『千と千尋の神隠し』の主人公でありヒロインでもある荻野千尋はお世辞にも可愛らしい女の子ではないと思っていました。
『天空の城ラピュタ』のシータのように清楚だが芯の強さのあるヒロインでも、『魔女の宅急便』のキキのように快活さのあるヒロインでもなく、何よりキャラクターデザインに可愛らしく描こうという意思が感じられません。
いや、そんなことを言えば「そんなことはない!」と否定されてしまいそうですし、実際もちろん千尋は十分に魅力的な主人公でありヒロインでした。
しかし、少なくとも媚びた可愛らしさは無かったのではないかと思います。
(『千と千尋の神隠し』より)
物語の導入部では、転校が気に食わないのかアンニュイな様子で目も虚ろ。何に対してもやる気が無さそうで元気も無い。考えてみればジブリ作品における千尋と同年代のキャラクターで、ここまで可愛げのないキャラクターも珍しいのではないでしょうか?
とはいえ、それこそが千尋というキャラクターの持つリアリティであり、今時の子供っぽさでもあるのではないかと感じました。
常に元気いっぱいで可愛げがあることだけが子供らしさってわけじゃないんだぞと、そう言われたような気がします。
そんな感じで、序盤の千尋にはある意味でリアリティのある子供っぽさが見え隠れしていました。
(『千と千尋の神隠し』より)
例えば、両親がどんどんと不気味なトンネルをくぐり、人気のない寂れた町を歩くのを不安そうについて行く姿。こういう時、子供の方が無邪気に恐いもの知らずな行動をしそうなイメージもありますけど、意外と子供には未知のものに対しては保守的な生き物だということが現れています。
大人になるほど未知のものに対して「何とかなる」という根拠のない自信を持てるようになるということですね。
僕も、子供の頃にこのシーンの千尋と同じような不安を持っていたことがあったと思います。僕の父親もまた千尋の父親のように根拠のない自信が強いタイプだったので、なんでそんな楽観できるのだと僕は気が気ではありませんでした。
(『千と千尋の神隠し』より)
例えば、「お店の人に怒られるよ」と千尋は怒られることを怖がっているのに、それに対する父親の答えは自分がいるから大丈夫だし財布もカードも持っているというもので、千尋の恐怖の答えになっていませんね。(笑)
怒られることは前提で大丈夫だと言っているわけです。
こういう温度感の違いが、子供を不安にさせてしまうのに気付いていないということなのだと思います。
(『千と千尋の神隠し』より)
また、少々冷たい雰囲気で子供である千尋の歩く速度など気にせずに先行する母親に、必死でついて行って不安そうに腕を組むシーンからも子供らしさが現れていますね。
ホラー映画としての千と千尋の神隠し
そして、大人である千尋の両親にはない未知への恐怖が、子供である千尋にはあるというギャップが、序盤における『千と千尋の神隠し』にホラー映画としての要素を与えていたように感じられます。
千尋にとっては、自分にある恐れが一番の理解者であるはずの両親に伝わらない。そしてその不安は誰もが子供の頃に少なからず感じたことがあるはずのもので、だからこそその不安にはとても共感できるようになっています。
最初は純粋なホラーではなく、理解されないことの怖さから始まるわけですね。
(『千と千尋の神隠し』より)
そしてハクとの出会い。そこからがジブリ作品でも稀に見るホラー展開になっています。
赤い橋の欄干の影が急激に変化するのと同時にハクに逃げろと急かされ、わけも分からず逃げ出す千尋。影がさしかかると人気のなかった町に明かりがともり、徐々に人ならざる者の気配が増していくのですが、これはまたなかなかの恐怖ですね。
そして、頼りの両親は何故かブタに。千尋の感じる怖さを理解してくれなかった両親でしたが、文字通り理解できなさそうな状態に変化してしまうのです。
(『千と千尋の神隠し』より)
そしてこの表情です。(笑)
いや、笑い事ではなく千尋の感じている恐怖がありありと伝わってきますね。
この後千尋は、ブタになった両親から離れて再び大声で両親に呼びかけます。恐らく千尋はブタになった両親を両親であると認識できているはず(でなければ最初に呼びかけたりしないはずなので)ですが、それなのに再び探すように呼び掛けるとは、その混乱の度合いが伺えますね。
ブタになったのを信じたくないだけなのか、分かっているけど何かにすがらずにはいられなかったのか、あるいはその両方なのか、それは分かりませんがとにかくここでの千尋が尋常ではない恐怖を抱えながら走り回っていたことは間違いありません。
(『千と千尋の神隠し』より)
これは夢なのだと何度も自分に言い聞かせ、「消えろ消えろ」と念仏のように唱える千尋ですが、そこで消え始めるのが自分自身の体だというのがまた恐ろしい。
これを体験しているのが十歳の女の子でなくても軽くトラウマになりそうです。
そして、畳みかけるように水中から現れる変な妖怪(?)。「ぎゃああ~!」と分かりやすい悲鳴を上げて千尋は再び駆け出すのですが、この叫び声がまたリアルなんですよね。
演者さんのセリフなのでもちろん演技なんですけど、あまり演技っぽくない叫び声になっているんです。それが演者の柊瑠美さんがまだ若くて未熟だったからなのか、あえてそうしているのかは分かりませんが、いずれにしても本物の叫び声という感じがして僕はこのシーンが結構好きだったりします。
まあ、柊瑠美さんの千尋役はどこをとっても素晴らしいので後者が正解な気がしますが、どうなんでしょうね。
いずれにしても、最序盤のこの畳みかけるようなホラーシーン。実は十数分程度の尺しか割かれていないにもかかわらず、とてつもなく濃密に千尋の恐怖が描かれていると感じられました。
もちろんこれは『千と千尋の神隠し』の見所のひとつなのですが、この最序盤の出来があまりにも秀逸であり、誰もが引き込まれるようなものになっていることが本作品がヒットした最大の要因なのではないかとも思います。
働く女性として強く成長していく千尋(千)
十歳という年齢は、少なくとも現代社会においては保護される対象であって間違っても自立した大人ではありません。そんな子供を働かせていたら、何を言われるか分かったものではありません。
しかし、それはあくまでも現代的な先進国における話で、まだまだ発展途上の国や、日本でももっと貧しかった時代であれば十歳なら自立して働いていてもおかしくはありません。
そして、『千と千尋の神隠し』おける千尋はあくまでも現代社会における十歳の女の子なのですが、不思議の町に迷い込んで湯婆婆に名前を取られて千になってからは働かざるを得ない状況に陥ります。
この状況、なんだか貧しい時代の日本における親元離れた奉公に近しいものがあるように感じられ、少々『おしん』の世界を彷彿とさせますね。
つまり、ある意味で『千と千尋の神隠し』は「もしも現代社会の女の子が貧しかった時代を経験したら?」というイフストーリーにもなっているのかもしれません。
両親を豚にされて湯屋で働くことになった千尋は、少々どん臭いところもあって失敗もしますが、しかし精神的には大きな変化を見せています。
トンネルに入る前の気だるげだった女の子が、元の世界に帰るために必死に頑張る姿にはとても心を打たれます。
(『千と千尋の神隠し』より)
特に印象的なのは最初に湯婆婆と契約するシーン。ハクに言われた通り「働かせてください!」と繰り返し、魔法で口を閉ざされた上で千尋が帰りたくなるように脅された後に魔法を解かれ、再びどうしたいかと問われて「働かせてください!」と繰り返す千尋。
なかなか根性があるところを見せたシーンにも感じられますが、僕には肩を小刻みに震わせる千尋が、ハクに言われた通りにすることに縋ることしかできないほどに追いつめられてるように感じられました。
これは比較的若い世代の大人なら共感してくれやすいと思うのですが、子供の頃は二十歳を過ぎて就職したら自分は大人になると思っていたのに、実際のところ中身はそんなに変わっていないと感じたことはないでしょうか?
僕は今でも感じています。(笑)
では大人と子供の違いって何なんだろうと考えてみたら、大人は大人らしく振舞わなければならない場面がたくさんあって、そんな場面の繰り返しこそが大人を大人に見せるのではないかと思うのです。
そして、そういう場面にはどうしても最初は怖さがあるものですが、千尋は僅か十歳で、しかも何の覚悟もなく突然立たされたわけで、挙句の果てに相手は超常的な存在ときたら普通は恐怖で漏らしてもおかしくありませんね。(笑)
ともあれ、千として湯屋で働くことになった千尋からは、不思議の町に迷い込む前の少し甘えたところのある子供らしさは鳴りを潜め、とても逞しい姿が目立つようになります。
(『千と千尋の神隠し』より)
そんな千尋が泣き出してしまうシーンがありますが、これは豚になった両親をハクの案内で見せられた直後。両親に近付いた直後に大人らしい仮面が外れてしまい、元の子供らしい姿を見せているという構図が興味深いですね。
カオナシという化け物が示すこと
ここまでで何となく『千と千尋の神隠し』という物語では大人と子供の違いについて強調するように描かれているような気がしていました。
それに千尋自身も、両親といる時の子供らしい姿から、名前を奪われて千となった後の逞しく大人的に描かれている姿。
(『千と千尋の神隠し』より)
そしてカオナシというキャラクター。彼(彼女?)は非常に謎めいたキャラクターではありますが、湯屋の従業員を飲み込んで巨大で醜い化け物になったあとの姿は、欲望にまみれた汚い大人のようにも、無邪気に欲しいものを欲する子供のようにも感じられます。
正直なところ、このカオナシというキャラクターが何を示唆していたのかは今でも僕にはわかりません。
ひとつの物語の中で子供(千尋)と大人(千)の両方の一面を持つことになった主人公の鏡なのかもしれませんし、それはただの考えすぎなのかもしれません。(笑)
しかし、少なくとも千尋はカオナシのことを無邪気な子供のように捉えていたのではないかと思っています。
お客様であるカオナシに対して千尋は最初敬語で接していましたが、化け物のような姿になり、だだをこねるような子供っぽい姿を見せてからは子供を諭すような声の掛け方をしているような気がしました。
そう考えると、大人っぽく逞しくなった千尋を引き立てるために存在したのがカオナシなのかもしれませんね。
最期に千尋が得たものとは?
全てが解決し人間の世界に戻れることになった千尋ですが、不思議な町の冒険を通して千尋が得たものは何だったのでしょうか?
湯屋では千として逞しく働いていた千尋ですが、両親と合流した後は再び少し甘えた子供らしさも取り戻しています。
(『千と千尋の神隠し』より)
トンネルを抜けるまでは振り返ってはいけないとハクに言われ振り返らなかった千尋は、トンネルを抜けた後に一度ジッと振り返っています。
その時、銭婆の編んだ髪留めがキラリと目立っていますが、果たして千尋に残ったのはこの髪留めだけだったのか?
いや、あくまでもこの髪留めは不思議な町での出来事の証拠でしかなく、何かしら千尋には得られたものがあったはずです。
それは恐らく、転校でアンニュイな気持ちになっていたけど、少し前向きになれたというような、単純で小さな変化なのだと思います。
しかし、この少し前向きになれることが大事なのだと、そう『千と千尋の神隠し』という作品は言いたいのだと感じました。
いつも何度でも
はじまりの朝の 静かな窓
ゼロになるからだ 充たされてゆけ
海の彼方には もう探さない
輝くものは いつもここに
わたしのなかに 見つけられたから※「いつも何度でも」の歌詞より抜粋
これは『千と千尋の神隠し』のエンディングに流れる主題歌「いつも何度でも」の歌詞を抜粋したものとなります。
どうやら元々は『千と千尋の神隠し』のために作られた曲というわけでもないらしいのですけど、しかし驚くほど作品のテーマにマッチした主題歌になっており、最後にこの曲を聴くことで視聴後もしばらく『千と千尋の神隠し』の世界に浸っていられるような気持になります。
要約すると、『千と千尋の神隠し』は両親や名前を奪われた千尋が最後にはその両方を取り戻した上で前向きにもなれたという物語だと思うのですが、 まさにゼロになってしまったところから、これまで以上に充たされるというストーリーですからね。
そんな感じで、『いつも何度でも』の歌詞の最後は、まさに千尋の物語における最後の千尋の感情が歌われているように感じるのです。
最後の「振り向かないで」というハクのセリフは過去を顧みないという意味が含まれる隠喩だと思うのですが、「海の彼方にはもう探さない」というのはそれに対する千尋の「振り向かない」という返事になっているように思えますし、「輝くものはいつもここに わたしのなかに見つけられたから」というのは、不思議の町での経験を経た千尋には確かに得たものがあるのだという証拠になっているように思えます。
呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも心躍る 夢を見たい
こちらは「いつも何度でも」の歌いだしの歌詞ですが、アンニュイでどこか拗ねた感じだった序盤の千尋の心情を歌っているようですね。
そんな感じで、『千と千尋の神隠し』を観た後にはスッと入ってきやすい歌詞になっているんです。
映画好きな人の中にも最後のエンディングは観ないタイプの人は一定数いると思いますし、僕も洋画なんかの膨大なスタッフロールにはうんざりしてしまうところがあったりすることもあるのですけど、この「いつも何度でも」という曲に関しては『千と千尋の神隠し』を観た直後こそが最も歌詞の良さが分かるタイミングなので、ちゃんと本編と続けて最後まで聴いてみて欲しいものだと思います。
物語に引き込んでくれるサウンド
もはやジブリ作品の個性のひとつと言っても過言ではないのが、久石譲氏による作中BGMですよね。
『千と千尋の神隠し』においてもそれは例外ではありません。
正直どの作品のサウンドも素晴らしく、そこに順位を付けることはできません。
しかし、音楽単品ではなく作品とのマッチ度を比較してみた場合、『千と千尋の神隠し』が頭一つ分抜きん出ているのではないかと感じています。(あくまでも個人的な感想で、人それぞれの感じ方はあるはずですが)
(『千と千尋の神隠し』より)
観る人を一気に作品の世界の中に引き込む序盤の素晴らしさは語るに及ばずですが、それに一役買っているのがまさに作中BGMだからです。
アンニュイな千尋の登場とともに流れている「あの夏へ」は、千尋の心情の変化に合わせて曲調が変わっていきます。転校することになった千尋の寂しげな心情が現れた静かな音色から、無茶な運転で脇道を通る父親の運転に、曲調も徐々に荒々しさを増していきます。
(『千と千尋の神隠し』より)
個人的に気に入っているのは、千尋が銭婆の元へ向かうために沼の底駅を目指すシーンで流れている「6番目の駅」という曲。
とても不気味で落ち込んだ印象の曲なのですが、しかし不思議と怖さの無い個性的な曲になっています。
そして、これはほんの一例で、『千と千尋の神隠し』における作品とサウンドの一体感は本当に半端ではないのですね。
もしもこの作品が漫画や小説だったとしたら、同じ物語であったとしても受ける印象もまた違ったかもしれないと思えるほどです。
いずれにしても、どうしても物語の内容やキャラクターに着目してしまいがちではありますけど、このサウンドの素晴らしさもまた『千と千尋の神隠し』という作品の重要なピースであることは間違いありません。
総括
いかがでしたでしょうか?
長文になりましたが、これが僕が『千と千尋の神隠し』を観た当時を思い出しながら書いた率直な感想文となります。
いや、正直言って後から得た知識や考察の影響を全く受けていないと言えば嘘になりますし、何度も観ている作品だからこそ一度観ただけの作品のレビューなんかよりは深いものになっているところもあります。
実際に初めて観た直後に感想文を書いていたら、また違った内容になっていたのではないかとも思います。
しかし、根本のところで感じたことは変わらないのではないかと思います。
初めて観た時も漠然と共感した千尋の不安は、誰もが子供の頃に感じたことのある類の不安です。
そして、それをトンネルのむこう側という異世界を舞台に具現化した作品であるということ。
それが『千と千尋の神隠し』という作品の根本だと僕は思いますし、それは初めて観た時から変わっていません。
本記事で改めて率直な感想を書いてみたことにより、『千と千尋の神隠し』という作品に対して感じていたことを改めて再認識することができましたが、不思議なことに深く触れたばかりの作品を早くもまた観たいと思ってしまっている自分がいます。
どんな名作でも、何度も観れば通常は飽きがくるものなのに不思議ですね。
これは前述した通り『千と千尋の神隠し』が、そして荻野千尋というキャラクターに、子供の頃の自分に共感させられるような性質があるからなのだと思います。
面白いからまた観たいのではなく、懐かしいからまた観たいという気持ちにさせられるわけですね。
これはもちろん古い作品だから懐かしいというわけではなく、いやそれもあるかもしれませんけど、ただただノスタルジックに子供の頃の古いアルバムをめくるような感覚に近いのかもしれません。
普段はアニメーション作品に興味を示さないような層にまで響く作品になっているのがその証拠ですよね。
今後、『千と千尋の神隠し』を上回るようなアニメ映画が誕生するようなことがあるのか否かは定かではありませんが、たとえあったとしても『千と千尋の神隠し』という素敵な作品は色褪せないのではないでしょうか?